The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-408- 【Julia】
【 Julia 】 -2-
歌詞に刻まれたジョンのオノ・ヨーコへの愛情の高まりについて
○
【資料】
ジョン
曲はインドで書いた
(プレイ・ボーイ・インタビュー1980完全版 P.331)
:
ジョンがインドで書いた。
インドで自分を見つめ母親へのラブ・ソングをジョンは書いた。
○
【歌詞】
ジョンが母親のことをうたったJuliaの歌詞
これはその初期ヴァージョンだ。
これはジョンの手になる初期の草稿で、
文字がいささか読みづらい。
Half of what I say is meaningless
But I say it just to reach you
Julia
When I cannot sing my heart,
I can only speak my mind
Julia
Beautiful Julia,silently calls me
As I sing a song of love for you
Julia
Her hair like saffron shimmering
glimmery
(ビートルズ・リリックス名作誕生 P.370)
:
ジョンの手書きの初期の歌詞が残っている。
上記の内容だ。
他の文献からの引用である最初のヴァースと次のヴァースは完成されている。
それ以下のヴァースは一部が変更されている。
この歌詞は最も初期の歌詞だろう。他の部分がなく未完成であり
オノ・ヨーコを表わすOcean childの言葉もでていない。
最初のジョンのアイデアは純粋にジュリアへのラブ・ソング
母親への愛をうたった歌だった。
Esher Demos(イーシャー・デモ)での歌詞は正規版とほぼ同じなので
ジョンはこの最初期の歌詞を元に5月末までに完成させていった。
○
【年表】
1968年2月16日
ジョンとシンシア、インドに到着
ジョンは2月中にリシケシュからオノ・ヨーコに手紙を書く
(ヨーコ・オノ・レノン全史 P.31)
:
ジョンは2月16日にインドに到着した。
妻のシンシアと行っていたが到着後すぐにオノ・ヨーコに手紙を書いた。
ジョンがインド滞在中にしていたオノ・ヨーコとの文通
これがこの曲の歌詞に大きな影響を与えている。
なぜなら最初期の歌詞はジョンから母親へのラブ・ソングであり
オノ・ヨーコの描写はないからだ。
オノ・ヨーコとの文通でジョンはオノ・ヨーコと心が触れ合うことによって
ラブ・ソングの歌詞の中にオノ・ヨーコの名前を登場させる。
ジョンとオノ・ヨーコの愛の深まりに、ジョンがインドに行った事
ジョンとオノ・ヨーコが文通したことが大きく影響している。
文通で2人は心が触れ合い愛情を感じるようになった。
だからジョンがインドから帰国した後に2人は結ばれたのだ。
○
【年表】
1967年夏頃
ジョンとオノ・ヨーコの交流が本格的になる
1968年4月12日
ジョンがインドから帰国
1968年5月19日
ジョンとオノ・ヨーコ、初めて結ばれる。
:
ジョンとオノ・ヨーコは1967年の夏に本格的に交流が始まった。
この頃、おそらくオノ・ヨーコはジョンに足しげくアプローチをかけただろう
ジョンはインドにでかけてオノ・ヨーコと文通する。
4月12日にインドから帰国する。
帰国した後5月19日に2人が結ばれる。
ジョンはインドでオノ・ヨーコへの愛が高まったのだ。
オノ・ヨーコとの文通で本格的にオノ・ヨーコを愛するようになった。
だから歌詞にオノ・ヨーコの名前が入った。
最初はなかったオノ・ヨーコの名前がジョンのラブ・ソングに入った。
ジョンのオノ・ヨーコへの愛情の経緯がこの曲の歌詞に刻まれている。