Beatlemania's Blog ~ビートルズ研究~

ビートルズ・ファンがビートルズについて調べたことを書くブログ

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-413- 【Julia】

 

【 Julia 】 -7-

 


【まとめ】

 

White Album」セッションでの録音34曲目

 


Julia について

ジョンがインドで書いた。
ジョンがインド滞在中にしていたオノ・ヨーコとの文通
これがこの曲の歌詞に大きな影響を与えている。
ジョンとポールはヘッドフォンごしに会話している。
ポールがジョンを勇気付けている。
最初の2行は他人の詩からの引用だ。
詩人、ハリール・ジブラーンの詩集「The Prophet」から引用している
曲のタイトルである「ジュリア」はジョンの母親の名前
ジョンが17歳の時に亡くなった。
その言葉がSeashell eyes、Windy smileだった。
だからこの言葉はジョンの言葉ではなくドノヴァンの言葉だ。
ジョンがオノ・ヨーコの手紙から歌詞の言葉を連想したのは
「Ocean child、Calls me」「Silent cloud」だ。
その歌詞の前半はハリール・ジブラーンの引用
その上にオノ・ヨーコ、ドノヴァンの言葉を加えている。

 


ビートルズの状態について

文通で2人は心が触れ合い愛情を感じるようになった。
だからジョンがインドから帰国した後に2人は結ばれた
ジョンはとてもリラックスしている。
この曲を歌うにあたって悲壮感はない。
ジョンの唯一のソロ・レコーディングだ。ポールはソロ・レコーディングが
増えたがジョンは最後に録音したこの曲のみだ。
ジョンは笑いながらポールに言葉を返している。
2人の仲のよい協力関係が感じられる。
Blackbirdの録音時にポールのそばにジョンがいたように
この曲の録音時にはそばにポールがいた。
2人は母を亡くした寂しさをお互いで紛らわせた。
母を亡くすという共通した状況が2人を接近させる。
ポールはジョンと仲がいい人に嫉妬しひどくあたる性格だ。
ジョンとスチュアートは親友であり一緒に暮らしていた。
ジョンと最も親しい人はポールではなくスチュアートだった。
このようにジョンと気持ちが通じ合っていて仲がよく
親友でありバンドのメンバーでもあったスチュアート
ポールはジョンをはさんでスチュアートに嫉妬し
ひどくあたった。
オノ・ヨーコの出現で親友の立場はすぐに揺らいだ。
明らかにジョンはオノ・ヨーコと一緒に時間を過ごし彼女を大事にしていた。
音楽のパートナーとしての立場も侵食されつつあった。
ジョンとオノ・ヨーコは2人だけでRevolution 9を作った。
危機感を持ったポールがオノ・ヨーコにすることは
ポールがかつてスチュアートに対してしたことと同じはずだ。
ポールはジョンをはさんでオノ・ヨーコに嫉妬し
オノ・ヨーコにひどくあたるはずだ。

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-412- 【Julia】

スチュアート・サトクリフ



【 Julia 】 -6-

 


オノ・ヨーコスチュアート・サトクリフの共通性について

 


【資料】

ジョンは、リヴァプール美術コレッジに入学した。
そこでジョンは最初の妻となるシンシアや、
親友であり「フィフス・ビートル」となるスチュアート・サトクリフ
出会った。

ビートルズ百科全書 P.418)

 


ジョンはアートスクールで妻になるシンシアと
後にビートルズに加入するスチュアート・サトクリフに出会った。

ジョンとスチュアートは同い年で同じ学校の生徒だった。
2人は親友だった。

 


【年表】

1959年12月
スチュアート・サトクリフがバンドに加入

 


1959年12月スチュアート・サトクリフがバンドに加入する。
スチュアートが加入したことでバンドはビートルズと名乗る。

 


【資料】

ジョン

僕らは時々彼にひどいことしたけどね。
特にポールだ、いつも彼にいちゃもんつけてた。
いつも僕はあとでとりなしてたんだよ。

(書籍 The Beatles Anthology P.69)

 


ジョンをはじめビートルズのメンバーはスチュアートに
ちょっかいをかけひどいことをしていた。

それは仲間内でのからかい、いじめのようなものだったのだろう。
特にポールがひどかった。

ポールはいつもスチュアートにいちゃもんをつけていた。
それはジョンが後でとりなすくらいひどかった。

 


【資料】

ポール

僕の場合には、ちょっと罪の意識も混ざっていた。
僕は常に彼の親友だったとは言えないから。
たびたびぶつかったからね。
ジョンを間にはさんで嫉妬もあったんだ。
僕らはみんなジョンと仲良くなりたくて競い合ってたのさ。
スチュアートはアート・スクールの仲間だから、ジョンと一緒に
いることが多かった。
それを僕ら嫉妬してたんだ。

(書籍 The Beatles Anthology P.69)

 


これはスチュアートが亡くなったことについてのポールの言葉。
罪の意識を感じるくらいにポールはスチュアートにあたっていた。

そこにはジョンをはさんでの嫉妬があった。
ジョンはスチュアートと同じ学校の仲間であり親友であった。

ジョンとスチュアートは一緒にいることが多く仲がよかった。
それにポールは嫉妬した。

嫉妬したからポールはスチュアートにひどくあたった。
ポールはジョンと仲がいい人に嫉妬しひどくあたる性格だ。

 


【資料】

ポール

ふたりは大学も同じで、一緒に暮らしてた

(書籍 The Beatles Anthology P.69)

 


ジョンとスチュアートは親友であり一緒に暮らしていた。
ジョンと最も親しい人はポールではなくスチュアートだった。

 


【資料】

アストリット

時間をかけてリヴァプールのジョンに手紙を書いてました。
自分の気持ちとか経験したことを全部書き、挿絵や詩を
何枚も添えたりしたんです。
そうした手紙は20枚くらいになりました。
ジョンから来る手紙もやはり長く、内容のあるものでした。

ビートルズ百科全書 P.697)

 


アストリットはドイツ人でありスチュアートの恋人。
スチュアートはアストリットと婚約してドイツで暮らし始めた。

ジョンとスチュアートは文通をした。
スチュアートはジョンに長い手紙を書いた。

ジョンも同じように内容のある長い手紙を書いた。
ジョンとスチュアートは気持ちが通じ合っていた。

このようにジョンと気持ちが通じ合っていて仲がよく
親友でありバンドのメンバーでもあったスチュアート

ポールはジョンをはさんでスチュアートに嫉妬し
ひどくあたった。

 


【年表】

1962年4月
スチュアート・サトクリフ死亡

 


スチュアートは脳出血が原因でドイツで死亡する。
ジョンは親友を失った。

ビートルズはその年の末にレコード・デビューする。
ポールはジョンを彼から取り戻した。

そして1968年5月、ポールの前にスチュアート・サトクリフ
そっくりな人物が現れる。オノ・ヨーコだ。

オノ・ヨーコはジョンと気持ちが通じ合っていて仲がよく
親友であり一緒に住んでいた。

バンドのメンバーのようにスタジオに出入りしジョンと一緒に曲を作っていた
ジョンはオノ・ヨーコをバンドに加えようとさえした。

ポールは危機感を持っただろう。
スチュアートがいなくなってから6年目に同じような人物が出現した。

この6年間はジョンの親友であり音楽のパートナーはポールだった。
それは6年間変わらなかった。

オノ・ヨーコの出現で親友の立場はすぐに揺らいだ。
明らかにジョンはオノ・ヨーコと一緒に時間を過ごし彼女を大事にしていた。

音楽のパートナーとしての立場も侵食されつつあった。
ジョンとオノ・ヨーコは2人だけでRevolution 9を作った。

2人だけでアルバムも製作しリリースしようとしている。
ジョンがオノ・ヨーコとの音楽作りに夢中になっているのは明らかだ。

危機感を持ったポールがオノ・ヨーコにすることは
ポールがかつてスチュアートに対してしたことと同じはずだ。

ポールはジョンをはさんでオノ・ヨーコに嫉妬し
オノ・ヨーコにひどくあたるはずだ。

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-411- 【Julia】

Julia Lennon

【 Julia 】 -5-

 


引用での歌詞の構成とオノ・ヨーコへの愛

 


【資料】

ジョンがIn My Life以来3年ぶりに書いたラブ・バラードで
ヨーコが歌詞の一部を手伝っている

The Beatles Sound Book Vol.3-2 Official Numbers P.38)

 


この曲はジョンの3年ぶりのラブ・ソング
歌詞の一部はオノ・ヨーコのものだ。

 


【資料】

ジョンが言う
「ヨーコと母のイメージをあわせてひとつにした」曲で
タイトルに母の名が、歌詞にヨーコの名(ocean child)が
使われている。

The Beatles Sound Book Vol.3-2 Official Numbers P.38)

 


この曲はオノ・ヨーコと母親ジュリアの2人を合わせている。
タイトルのジュリアは母親、歌詞にオノ・ヨーコの名が出てくる。

 


【インタビュー】

ジョン

ジュリアはぼくの母親だ。
でもこれはヨーコと母親のイメージを重ねて一つにした合成のようなものだ。
(プレイ・ボーイ・インタビュー1980完全版 P.331)

 


2人のイメージを合成したとジョンが語っている。
オノ・ヨーコに母親のイメージを重ねた。

 


【資料】

ぼく(ジョン)が書いた。
この曲ではヨーコが手伝ってくれた。

ジュリアはぼくの母親だ。
でもこれはヨーコと母親を混ぜてひとつにした一種の合成だね

(ビートルソングス P.142)

 


歌詞をオノ・ヨーコが手伝っている。
イメージは2人が合成されている。

 


【資料】

Ocean child、Calls me

の行はインドのジョンに宛てたヨーコの手紙に言及している。
日本語ではヨーコは大洋の子の意。

(ビートルソングス P.142)

 


インドでジョンとオノ・ヨーコは文通していた。
オノ・ヨーコからの手紙にOcean child、Calls meに関することが書かれていた。

Ocean childは大洋の子で洋子。
オノ・ヨーコはそう手紙に書いていたのだろう。

 


【資料】

彼女(ヨーコ)はインドにいる彼(ジョン)に手紙を出し、そのひとつに
「わたしは雲よ。空にいるわたしを探して」
と書いていたが、それが「Silent cloud」に活かされている

ビートルズ・リリックス名作誕生 P.367)

 


オノ・ヨーコがジョンに宛てた手紙の中に他の言葉もあった。
その言葉が「わたしは雲よ。空にいるわたしを探して」

ジョンはオノ・ヨーコの手紙の中の言葉から
「Silent cloud」を思いつき歌詞の言葉にした。

ジョンがオノ・ヨーコの手紙から歌詞の言葉を連想したのは
「Ocean child、Calls me」「Silent cloud」だ。

 


【歌詞】

Half of what I say is meaningless  ★ハリール・ジブラーン
But I say it just to reach you, Julia  
Julia, Julia

Ocean child  ★オノ・ヨーコ
Calls me

So I sing a song of love, Julia  ★ジョン・レノン
Julia,

Seashell eyes  ★ドノヴァン
Windy smile

Calls me

So I sing a song of love, Julia  ★ジョン・レノン

Her hair of floating sky is shimmering  ★ジョン・レノン
Glimmering in the sun

Julia, Julia

Morning moon

Touch me

So I sing a song of love, Julia  ★ジョン・レノン
When I cannot sing my heart,
I can only speak my mind, Julia

Julia, 

Sleeping sand  ★オノ・ヨーコ
Silent cloud

Touch me

So I sing a song of love, Julia  ★ジョン・レノン

Mmm...
Calls me

So I sing a song of love for Julia

Julia

 


ジョンが誰からの言葉を引用したのかを書きこんだ。
★の人物の言葉を引用している

ジョンの言葉はかなり少ない。
前掲のジョンによる最初期の歌詞の後半のみがジョンの言葉だ。

その歌詞の前半はハリール・ジブラーンの引用
その上にオノ・ヨーコ、ドノヴァンの言葉を加えている。

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-410- 【Julia】

Kahlil Gibran



【 Julia 】 -4-

 


歌詞の引用とジュリアへの愛

 

【資料】

最初の2行の詞

Half of what I say is meaningless
But I say it just to reach you

レバノン出身の詩人・画家・彫刻家、
ハリール・ジブラーン(Kahlil Gibran)の
1923年に発表された詩集「The Prophet」から引用している

(真実のビートルズサウンド P.397)


最初の2行は他人の詩からの引用だ。
詩人、ハリール・ジブラーンの詩集「The Prophet」から引用している

 


【資料】

Half of what I say is meaningless
But I say it to so that the other half may reach you

「Sand And Foam」by Kahlil Gibran

(ビートルソングス研究読本 P.12)

 


ハリール・ジブラーンの詩集「The Prophet」に収録されている
「Sand And Foam」という詩

この部分をジョンはほぼそのまま引用している。
半分は意味がないけど「もう半分を」の言葉はカットしている。

 


【資料】

タイトルはジョンがわずか17歳のときに亡くなった母親の名前
彼が実名を挙げて彼女のことをうたったのは、
この曲がはじめてだった。

それはまた、ヨーコに宛てたラブ・ソングでもある。

ビートルズ・リリックス名作誕生 P.367)

 


曲のタイトルである「ジュリア」はジョンの母親の名前
ジョンが17歳の時に亡くなった。

ジョンは亡くなった母親の名前でラブ・ソングを書いた。
ジョンが母親の名前をあげた曲を作るのは初めてだ。

ただこの曲は母親へのラブ・ソングというだけではない。
オノ・ヨーコへのラブ・ソングという側面もある。

 


【年表】

1956年10月31日
メアリ・モーヒン(ポールの母)亡くなる(47歳)
ポール14歳

1957年7月6日
ウルトン教区教会でジョンとポールが出会う
ジョンはステージでBe-Bop-A-Lulaを歌う
ポールはジョンにTwenty Flight Rockを聞かせる

1958年7月15日
ジュリア交通事故で死亡
ジョン17歳

 


ポールはジョンと出会う1年前に母を亡くしていた。
ジョンはポールと出会った1年後に母を亡くした。

2人は母を亡くした寂しさをお互いで紛らわせた。
母を亡くすという共通した状況が2人を接近させる。

 


【資料】

自らを詩人と呼ぶ彼(ドノヴァン)にビートルズが作詞のアドヴァイスを
求めることもあった。

海岸で母親と手をつないで歩いているようなイメージで、
自分が体験できなかった母親と一緒の子供時代を曲にしたい。

こうドノヴァンに言ったジョンは、彼を童謡の王様と呼び
Juliaの歌詞に手を貸してくれと頼んだ。

ドノヴァンの考えたSeashell eyes、Windy smile(貝殻の瞳、風の微笑み)は
不思議の国のアリスにでてくる言葉のようで、ジョンはたいそう喜んだ。

レコード・コレクターズ 2018年 12月 P.74)

 


インドでビートルズとドノヴァンは一緒に修行をした。
インドでジョンはドノヴァンに歌詞のアドヴァイスを求めた。

この曲のジョンのイメージは子供の自分と母親だった。
ジョンは体験できなかった母親との体験を曲にしようとした。

だからこの曲の歌詞は子供であるジョンが母を慕う気持ちだ。
今のジョンではなく子供のジョンが母親を愛し求める気持ちを歌っている。

ジョンは曲のイメージをドノヴァンにそう説明した。
ドノヴァンはジョンのイメージに答えていくつかの言葉を提供した。

その言葉がSeashell eyes、Windy smileだった。
だからこの言葉はジョンの言葉ではなくドノヴァンの言葉だ。

ドノヴァンが考えたジョンの母親を表わす言葉だ。
オノ・ヨーコではなくジュリアを表わした言葉になる。

ジョンはジュリアに対して持っていたイメージに合っているので喜んだ。
ジョンにとってジュリアは貝殻の瞳、風の微笑み、なのだ。

人ではない俗世界にいない精霊のような聖者
神々しく光り輝いているあこがれの存在だ。

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-409- 【Julia】

John LennonPaul McCartney



【 Julia 】 -3-

 


イーシャー・デモと本番中のジョンとポールの会話について

 


【資料】

Esher Demos(イーシャー・デモ)

ジョンが「ハロー、ポール」なんて言っている。
高音のハモリ・パートも歌われるが、完成版では聴くことができない

レコード・コレクターズ 2018年 12月 P.95)

 


「ホワイト・アルバム」(3CDデラックス・エディション)の
3枚目(イーシャー・デモ)の12曲目でイーシャー・デモが聞ける。

歌の前にジョンがポールに「ハロー、ポール」と例のおどけた声色で言う。
気を許し合った親密な間柄にのみ許される呼びかけだ。

ジョンはとてもリラックスしている。
この曲を歌うにあたって悲壮感はない。

ポールのハーモニーも歌われている。
完成版では歌われなかった。

 


【資料】

Esher Demos(イーシャー・デモ)

録音の最初にジョンがマイクのレベルを下げるように言う
マイクが2本のギターのそばに立てられた。
ジョンのボーカルは2回重ねられポールが高音のハーモニーを歌った。

(That Magic Feeling,The Beatles' Recorded Legacy P.169)

 


ジョンが「ハロー、ポール」と言った後に続けて喋っている。
マイクのレベルを下げるように言っている。

マイクはギターのそばに立てられた。
ジョンはボーカルを2回歌い、ポールがハーモニーをつけた。

 


【資料】

1968年10月13日(日)
Julia
第1回録音

第1~3テイク

最後の曲はジョン・レノンのJulia
ビートルズのキャリアにおいて唯一のレノンのソロ・レコーディングで
4トラック・テープにアコースティック・ギターとボーカルを
2回ずつ録るというシンプルな録音

(The Complete Beatles Recording Sessions P.201)

 


10月13日、日曜日に録音された。
White Albumのセッションで日曜日に録音された曲はこの曲だけだ。

土曜日の録音は1日だけある。1週間前の10月5日だ。
Savoy Truffle、Martha My Dearを録音している。

それまで規則正しく月~金で録音していたがセッションも大詰めになり
時間の関係で日曜になったのだろう。

ジョンの唯一のソロ・レコーディングだ。ポールはソロ・レコーディングが
増えたがジョンは最後に録音したこの曲のみだ。

ジョンがギターとボーカルを2回ずつ4トラック・テープに録音した。
つまりこの曲は弾き語りではない。

 


【資料】

CD版 Anthology3
27曲目

ここで聴くことのできるテイク2は、ほとんどインストゥルメンタルである。
ジョンはアコースティック・ギターのトラックを完成させようと
試みている。
あいにく失敗してしまう

(CD版 Anthology3 CD付属解説書 P.18)

 


第2テイクをCD版 Anthology3-27で聞ける。
最初にのみボーカルが入っている。

ジョンはバック・トラックであるギターを録音している。
失敗して途中でやめる。

 


【歌詞】

CD版 Anthology3
27曲目


Paul: That was a great take until?then
John: It was till then
Paul: Maybe try it again, there was one or two little
John: There was just the one wasn't there?
Paul: That was great.let me tell you
John: I couldn't ha... Couldn't I go from there? Yea...
John: Cause that one was perfect, wasn't it?

 


CD版 Anthology3に収録されている第2テイク
演奏の後でジョンとポールの会話が録音されている。

ポール:そこまではよかった
ジョン:そこまではね
ポール:もう1回してみよう、1か所か2か所だけだ
ジョン:1か所だろ?
ポール:いいね
ジョン:そこからできなかった
ジョン:だって完璧だっただろ?

ジョンとポールはヘッドフォンごしに会話している。
ポールがジョンを勇気付けている。

ジョンは笑いながらポールに言葉を返している。
2人の仲のよい協力関係が感じられる。

 


【資料】

Julia(ツー・リハーサル)

ジョンが「歌うのがとってもキツい」なんて言ってから演奏。
キーが低く、優しく歌う

レコード・コレクターズ 2018年 12月 P.93)

 


第1~3テイクを録音する前のリハーサル音源が残っていた。
上書きされなかった部分が残っていた。

White Album(スーパー・デラックス・エディション 2018)
6-18曲目で聞ける

 


【資料】

ジョンにとっては初めてのソロ・レコーディング
コントロール・ルームにはポールという強い味方がいた。
ふたりはヘッドフォンを通じてやりとりしながらセッションを進めた。

(CD版 Anthology3 CD付属解説書 P.18)

 


ジョンにとっては初めてのソロ・レコーディング
録音時にはコントロール・ルームにポールがいた。

Blackbirdの録音時にポールのそばにジョンがいたように
この曲の録音時にはそばにポールがいた。

 


【資料】

2月11日にHey Bulldogを録音して以来の
日曜セッションが行われる。
アルバムのための最後のレコーディングは
胸をうつようなジョンのバラードJulia
ビートルズのなかでは唯一のジョンのソロ・レコーディング

(The Complete Beatles Chronicle 1965-1970 P.370)

 


日曜日の録音は1968年2月11日以来だった。
White Albumの最後のレコーディングだ。

 


【資料】

映像版 Anthology 8でのヴァージョンは正規版の一部に
スタジオの会話を編集したもの

(Complete Beatles Audio Guide P.125)

 


映像版 Anthology 8に収録されているジュリアは
正規版の音源だ。

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-408- 【Julia】

John & Yoko



【 Julia 】 -2-

 


歌詞に刻まれたジョンのオノ・ヨーコへの愛情の高まりについて

 


【資料】

ジョン

曲はインドで書いた

(プレイ・ボーイ・インタビュー1980完全版 P.331)

 


ジョンがインドで書いた。
インドで自分を見つめ母親へのラブ・ソングをジョンは書いた。

 


【歌詞】

ジョンが母親のことをうたったJuliaの歌詞
これはその初期ヴァージョンだ。

これはジョンの手になる初期の草稿で、
文字がいささか読みづらい。


Half of what I say is meaningless
But I say it just to reach you
Julia

When I cannot sing my heart,
I can only speak my mind
Julia

Beautiful Julia,silently calls me
As I sing a song of love for you
Julia

Her hair like saffron shimmering
glimmery

ビートルズ・リリックス名作誕生 P.370)

 


ジョンの手書きの初期の歌詞が残っている。
上記の内容だ。

他の文献からの引用である最初のヴァースと次のヴァースは完成されている。
それ以下のヴァースは一部が変更されている。

この歌詞は最も初期の歌詞だろう。他の部分がなく未完成であり
オノ・ヨーコを表わすOcean childの言葉もでていない。

最初のジョンのアイデアは純粋にジュリアへのラブ・ソング
母親への愛をうたった歌だった。

Esher Demos(イーシャー・デモ)での歌詞は正規版とほぼ同じなので
ジョンはこの最初期の歌詞を元に5月末までに完成させていった。

 


【年表】

1968年2月16日
ジョンとシンシア、インドに到着

ジョンは2月中にリシケシュからオノ・ヨーコに手紙を書く

(ヨーコ・オノ・レノン全史 P.31)

 


ジョンは2月16日にインドに到着した。
妻のシンシアと行っていたが到着後すぐにオノ・ヨーコに手紙を書いた。

ジョンがインド滞在中にしていたオノ・ヨーコとの文通
これがこの曲の歌詞に大きな影響を与えている。

なぜなら最初期の歌詞はジョンから母親へのラブ・ソングであり
オノ・ヨーコの描写はないからだ。

オノ・ヨーコとの文通でジョンはオノ・ヨーコと心が触れ合うことによって
ラブ・ソングの歌詞の中にオノ・ヨーコの名前を登場させる。

ジョンとオノ・ヨーコの愛の深まりに、ジョンがインドに行った事
ジョンとオノ・ヨーコが文通したことが大きく影響している。

文通で2人は心が触れ合い愛情を感じるようになった。
だからジョンがインドから帰国した後に2人は結ばれたのだ。

 


【年表】

1967年夏頃
ジョンとオノ・ヨーコの交流が本格的になる

1968年4月12日
ジョンがインドから帰国

1968年5月19日
ジョンとオノ・ヨーコ、初めて結ばれる。

 


ジョンとオノ・ヨーコは1967年の夏に本格的に交流が始まった。
この頃、おそらくオノ・ヨーコはジョンに足しげくアプローチをかけただろう

ジョンはインドにでかけてオノ・ヨーコと文通する。
4月12日にインドから帰国する。

帰国した後5月19日に2人が結ばれる。
ジョンはインドでオノ・ヨーコへの愛が高まったのだ。

オノ・ヨーコとの文通で本格的にオノ・ヨーコを愛するようになった。
だから歌詞にオノ・ヨーコの名前が入った。

最初はなかったオノ・ヨーコの名前がジョンのラブ・ソングに入った。
ジョンのオノ・ヨーコへの愛情の経緯がこの曲の歌詞に刻まれている。

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-407- 【Julia】

 

【 Julia 】 -1-

 


今の感想

 


このセッションでの録音34曲目。
ジョンの曲

ジョンは母親を希求している。
White Albumの時にはジョンはそのことを意識している。

Help!の時は無意識だったとジョン自身が語っている。
そうだとすれば1965年から1968年の間に何があったのか。

ジョンはなぜ母親が問題だということを悟ったのか。
ジョン自身の母親を求める尽きせぬ気持ちを知ったのか。

この間に何があったのか。
それはオノ・ヨーコとの出会い以外にない。

ジョンはオノ・ヨーコと出会ったことで母親を手に入れた。
ジョンは母親を手に入れて狂喜したことを自覚している。

ジョンは生まれ変わった。
ジョンは今までのジョンとは違うのだ。

この曲はジョン1人での弾き語りだ。ジョンがバンド演奏でなく
1人で録音するのはビートルズのデヴュー以来初めてのことだ。

なぜジョンが異色とも言える弾き語りをしたのか。
それはとてもプライベートな愛を歌った曲だったからだ。

ジョンはこの曲で本心からの愛を愛しい気持ちを最愛の相手に伝えている。
その相手は母親でありオノ・ヨーコでもある。

ジョンの本心を歌ったラブ・ソングだ。
ここには嘘も誇張もダブル・ミーニングもない。

アルバムではB面ラストに位置する。
この位置はアルバムの本質を表わす曲が位置するところだ。

確かにWhite Albumはフォークが本質だ。
だからこの曲がB面ラストに置かれるのはわかる。でもそれだけではない。

このアルバムはジョンの母親を希求する気持ちを土台にしている。
母親を求めて得られず満たされなかった気持ちが社会への反抗になって現れる

母親を求める気持ちがオノ・ヨーコによって満たされ喜びに包まれる。
ジョンの精神の革命がなされて高揚感に沸き立つ。

混沌と叛乱の精神がもたらされ活発になったジョンの心が呼応する。
このジョンの精神がWhite Albumの土台だ。

そういう意味でWhite Albumの本質はジョンの母親への希求する気持ちであり
それはまたオノ・ヨーコへの愛と同一のものだ。

ジョンはこの世界に居場所を見つけた。
その喜びの中で母親に捧げたアンセムがこの曲だ。