The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-176- 【Helter Skelter】
【 Helter Skelter 】 -15-
シングル「Helter Skelter」が生まれた経緯について
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【年表】
1976年5月31日
米キャピトル
シングル「Helter Skelter」発売
:
米キャピトルは1976年5月にビートルズのシングルを発売した。
それは「Helter Skelter」のシングルだった。
ビートルズが解散してから6年が経ってからのシングルだった。
なぜこの時期にHelter Skelterをシングル発売したのか。
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【資料】
裁判の検察官、ヴィンセント・バグリオージとカート・ジェントリーが書いた
Helter Skelterがベスト・セラーとなった。
次いでそれが戯曲化されHelter Skelterという題で2回に分けてテレビ放映され
White Albumからの数曲を流した。
(ビートルズ百科全書 P.334)
:
シャロン・テイト事件の実際の検察官の二人が事件に関する本を出版した。
その本の題名は「Helter Skelter」だった。
本はベスト・セラーとなりブームになった。
そのブームに乗ってTVドラマが制作され放映された。
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【資料】
事件を担当したふたりの検事による裁判記録がベスト・セラーになり
2部構成のフィルム「Helter Skelter」が製作されたことから、
このシングルは生まれた。
1976年4月30日キャピトルは評判になっていた「Helter Skelter」をラジオ用の
プロモ・シングルとして配布し全米で煽ったが、殺人事件を利用してレコードを
売るのは忍びないとしてGot to Get You into My LifeをA面にしたシングルに切り替えた。
(ザ・ビートルズ・マテリアル vol.1 P.139)
:
本とドラマによりHelter Skelterが評判になった。
キャピトルはそのブームに乗っかりHelter Skelterのシングルを発売した。
まずラジオ用のプロモ・シングルを配布して全米を煽った。
でも殺人事件を利用してレコードを売ったと糾弾されるのをおそれたのだろう。
実際のシングルはA面をGot to Get You into My Lifeとした。
それくらいこの事件は社会的に大きかったということだろう。
ポールにとってこのブームは気持ちのいいものではなく辛かっただろうが
キャピトルがポールの気持ちを考慮したわけではない。
○
【資料】
1976年5月31日にキャピトル・レコードが急ぎHelter Skelterのシングルを
発売することになった。
ところがキャピトルはHelter Skelterのシングル特別盤を
宣伝用にディスク・ジョッキーに送ってはいたものの発売に際しては
Got to Get You into My LifeのB面にした。
マンスン事件を利用しているとの非難を恐れたからだ。
このシングルはアメリカのチャートで3位になった。
(ビートルズ百科全書 P.334)
:
シングルは全米3位となった。
成功した。
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【年表】
1969年8月8日
ロマン・ポランスキー邸に押し入ったマンソンらは
夫人シャロン・テイトを殺害
担当検察官の著作
「Helter Skelter」がベスト・セラー
戯曲「Helter Skelter」がTV放映
1976年4月30日
ラジオ用のプロモ・シングルとして
「Helter Skelter」を配布
1976年5月31日
米キャピトル
シングル「Helter Skelter」発売
:
マンソンがシャロン・テイトを殺害してから7年後に
キャピトルはシングル「Helter Skelter」を発売した。
まずラジオ用にHelter Skelterを配布した。
その1ヵ月後にシングルとして発売した。
ただしHelter SkelterはB面とした。
社会的に糾弾されるのを恐れたからだ。