Beatlemania's Blog ~ビートルズ研究~

ビートルズ・ファンがビートルズについて調べたことを書くブログ

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-296- 【Back In The USSR】

ジェリー・リー・ルイス



【 Back In The USSR 】 -9-

 


ポールはリード・ギターを弾いたのか

 


【資料】

1968年8月23日
第2回録音

翌日リンゴ不在で
第5テイクにオーバー・ダブをする。

ポールのピアノとジョージのドラムとエレクトリック・ギターを
オーバー・ダブした。
ジョンのベースは消した。

これをリダクションして第6テイクとした。
2つのトラックにポールのリード・ボーカルと
ジョンとジョージのバック・コーラス、手拍子をオーバー・ダブした。

残りの4つ目のトラックにポールとジョージのベース、
ジョンのスネア・ドラムを入れた。

結果的にリンゴ以外の3人全員のドラムが入った。

(That Magic Feeling,The Beatles' Recorded Legacy P.205)

 


オーバー・ダブをして曲を完成させる工程を確認してみる。
第5テイクはドラムとベースとジョージのリード・ギターだ。

翌日リンゴがいないままオーバー・ダブをする。
ここでのオーバー・ダブはテープスピードを落としている。

ポールのピアノとジョージのドラムをオーバー・ダブする。
ジョンのベースは消す。

ここでもう一つオーバー・ダブがされている。
それがエレクトリック・ギターだ。

ポールがリード・ギターを弾いていいるとすれば、この時しかない。
残念ながらこの資料には誰が弾いているかは記載がない。

このオーバー・ダブの後、第5テイクは第6テイクにリダクションされる。
その後に再びオーバー・ダブが重ねられて完成する。

この曲の録音はアビー・ロード・スタジオでされた。
4トラック録音だ。

第6テイクには1つ目のトラックにベーシック・リズム・トラックが入っている
残りは3トラックだ。

2つのトラックにポールのリード・ボーカルとジョンとジョージの
バック・コーラス、手拍子を入れた。残りは1トラックだ。

残りのトラックにポールとジョージのベース、ジョンのスネア・ドラムを
入れた。これで完成だ。

このように第6テイクにリダクションされた後のオーバー・ダブでは
リード・ギターの録音はされていない。

ベーシック・リズム・トラックではジョージがリード・ギターを弾いた。
これは確実だ。

テープスピードを落とした第5テイクに
誰かがエレクトリック・ギターをオーバー・ダブをした

エレクトリック・ギターは誰が弾いたかは不明。
これがポールの弾いたリード・ギターである可能性はある。

 



【資料】

ボーカルはエルヴィスを思わせる歌い方である。
「Well」とちりめんビブラートで入ってくるところなんかは
エルヴィスそのものである。
歌中もビブラートを加えエルヴィスを意識した歌い方になっている

(全曲解明!!ビートルズサウンズ大研究(下) P.63)

 


この歌は50年代のロックン・ロールへのオマージュだ。
題名はチャック・ベリーの1959年のシングル、Back In The USA

だから当然ポールはボーカルを50年代ロックン・ロールのパロディをした、
ものまねをしただろう。

それはポールの大好きなエルヴィスだったかもしれない。
ポールはソロでエルヴィスのカヴァーをよくしている

あるいは50年代のピアノ・ロックン・ロールの雄、
ジェリー・リー・ルイスかもしれない。

この曲の叩きつけるようなピアノは彼の持ち味だ。ビートルズ~ポールは
彼のカヴァーをしていないのでそうだとすると興味深い

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-295- 【Back In The USSR】

映画「A Hard Day's Night」



【 Back In The USSR 】 -8-

 


第2回録音、リンゴ以外の3人全員がドラムを叩いたことについて

 


【資料】

1968年8月23日
第2回録音

翌日リンゴ不在で
第5テイクにオーバー・ダブ

ポールのピアノ、ジョージのドラム
ジョンのベースは消した。
これからリダクションして第6テイクとし
ポールのリード・ボーカル、ジョンとジョージのバック・コーラスと手拍子
4つ目のトラックにはポールとジョージのベース、
ジョンのスネア・ドラムを入れた。

結果的にリンゴ以外の3人全員のドラムが入った。

(That Magic Feeling,The Beatles' Recorded Legacy P.205)

 


翌日もリンゴは不在だった。
昨日の第5テイクをテープスピードを落としてオーバー・ダブした。

オーバー・ダブしたのはポールのピアノとジョージのドラム。
この二つの楽器を録音するためにテープスピードを落とした。

ベーシック・リズム・トラックに録音していたジョンのベースは消した。
理由は言及している資料がないが、気に入らなかったのだろう。

オーバー・ダブをした後にリダクションして第6テイクを作成。
テープスピードを早めてベーシック・リズム・トラックのキーに合わせる。

そしてポールのリード・ボーカルとジョンとジョージのバック・コーラスと
手拍子を入れる

ポールとジョージのベース、ジョンのスネア・ドラムも入れて完成する。
ジョンはスネア・ドラムだけなのでテープスピードを遅くしなくても叩けた。

ここまでの録音の流れをみてもピアノとドラムを録音しやすいように
第5テイクのテープスピードを遅くしたとする説は辻褄が合っている。

リンゴが参加していないこの曲の録音でリンゴ以外の
3人全員がドラムを叩いている。そんな曲はこの曲だけだ。

3人はリンゴが不在であることを気にしていないし
リンゴ不在の録音を楽しんでいる。

映画「A Hard Day's Night」でスタッフがドラムを触ったことにリンゴが
不機嫌になりジョンがIf I Fellを歌い始めるシーンがある。

リンゴがドラムを他人に触られると不機嫌になるのは全員が知っていること
だったのだろう。日常的によくあったことだったのだろう。

同映画でリンゴがバンドを離れ一人で外出するシーンがある。
これも日常的にリンゴは不機嫌になると黙って外に出たのかもしれない。

だから3人は気楽に考えたのだろう。
いつものことだからすぐに帰るだろうと考えたのだろう。

いたずら心もあったのだろう。リンゴがドラムに自信喪失して出て行った時に
3人全員がドラムを叩くという悪い冗談を実行する

 


【資料】

1968年8月23日
第2回録音
完成

このセッションではさらに2つのドラム・トラック、
2つのベース・パート、2つのリード・ギター
ピアノ、リード・ボーカル(ポール)
ビーチ・ボーイズ風のバック・ボーカル(ジョンとジョージ)
手拍子をオーバー・ダブ

(The Complete Beatles Recording Sessions P.188)

 


2つのドラム・トラックはジョージのドラムとジョンのスネア・ドラム
2つのベースはポールとジョージ

2つのリード・ギターとは何だろう。ベーシック・リズム・トラックでは
ジョージが弾いている。あとの1つは誰かが弾いているのだろうか。

ピアノはポール、リード・ボーカルはポール
ビーチ・ボーイズ風のバック・ボーカルはジョンとジョージだ。

 


【資料】

最初の数テイクはベーシック・トラックでポールがドラムスを担当している
後にさらに2つのドラム・トラックがオーバー・ダブされた
3つのベース・パートはそれぞれジョン、ポール、ジョージがプレイ
またポールとジョージが共にリード・ギターを弾いた。

(The Complete Beatles Recording Sessions P.188)

 


3つのベースとあるがジョンのベースは消されたと前記の資料にはある。
ポールのリード・ギターの記載は前記の資料にはない。

 


【資料】

オーバー・ダビング

ドラムが2セット(ジョンとジョージ)
ベースが2本(ポールとジョージ)
リード・ギターが2本(ジョンとポール)
リード・ボーカルとピアノ(ポール)
バック・コーラス(ジョンとジョージ)
手拍子

(The Complete Beatles Chronicle 1965-1970 P.359

 


この資料でもポールがリード・ギターを弾いている。
ポールがリード・ギターを弾いたかどうかだけが確定できない

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-294- 【Back In The USSR】

George HarrisonPaul McCartney



【 Back In The USSR 】 -7-

 


第1回録音の演奏のテンポはイーシャー・デモより速かったのか

 


【資料】

1968年8月22日
第1回録音

5テイク録った
リンゴを除いたメンバーで録音した。

(Complete Beatles Audio Guide P.114)

 


録音初日に5テイク録音した。
リンゴは失踪して不在だった。

 


【資料】

1968年8月22日
第1回録音
第1~5テイク

ベーシック・リズム・トラック
ファースト・ドラムス(ポール)
ファースト・リード・ギター(ジョージ)
ファースト・ベース(ジョン)
のみが録音された

あとのパートはすべて翌日のセッションでオーバー・ダブ

(The Complete Beatles Recording Sessions P.188)

 


ベーシック・リズム・トラックを作成した。
3人で一緒に演奏した。

ポールがドラムを叩きジョージがギター、ジョンはベースだった
この日はこの演奏を5テイク録って終了した。

 


【資料】

White Album(スーパー・デラックス・エディション 2018)
5-10曲目

テイク5-インストゥルメンタル・バッキング・トラック

驚きのテイク
完成版の元になったインスト・テイクだがキーが1音低く
テンポも遅い。
何かの楽器を加えやすくするためにテープ速度をおとしたのだろうか

レコード・コレクターズ 2018年 12月 P.93)

 


第5テイク
スーパー・デラックス・エディション 2018の5枚目10曲目で聞ける

ポールがドラム、ジョージがギター、ジョンはベース
ベーシック・リズム・トラックでボーカルは入っていない。

ここで聞ける第5テイクはオーバー・ダブされ完成されてアルバムに収録された
ただ、アルバム収録ヴァージョンと比べてテンポが遅くキーが低い。

そこでこの第5テイクとイーシャー・デモのヴァージョンを比べてみる。
そうするとテンポは同じだった。キーも同じだ。

イーシャー・デモと同じように演奏して第5テイクを録音。
オーバー・ダブした後にピッチを上げてキーを高くしたのだろうか。

それともイーシャー・デモよりもキーを上げてテンポも上げて演奏して録音。
それをテープスピードを落としてオーバー・ダブをしていく。

このテープスピードを落としたものが第5テイクとして(スーパー
・デラックス・エディション 2018)に収録されたのだろうか。

ベーシック・リズム・トラック(テイク5)はイーシャー・デモのテンポで
録音されたのか、アルバム収録ヴァージョンのテンポで録音されたのか

ということになります。
資料を調べたのですが明記された資料はありませんでした。

こんな複雑なことをするのはなんのメリットがあるのだろうか。
それはおそらくテンポの速い状態では楽器を演奏できなかったから。

まずポールのピアノ。速すぎて弾けなかった。
あとジョージのドラム。慣れていないので弾けなかった。

この2つの楽器を演奏しやすいようにテンポを遅くした。
この資料では「テープ速度をおとした」のではないかと記載している。

つまり、ベーシック・トラック(テイク5)はアルバム収録ヴァージョンの
テンポで録音され、その後にテープ・スピードを落とされたとする説です。

ここではこの資料の説を採用します。
ベーシック・トラックはアルバム収録ヴァージョンのテンポで録音された。

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-293- 【Back In The USSR】

Cynthia LennonJohn Lennon、Mike Love



【 Back In The USSR 】 -6-

 


この曲の作成からイーシャー・デモまで

 


【資料】

インド滞在中にポールが作った曲

White Album CD付属解説書 P.5)

:
インドで作ったポールの曲。
マハリシの講義を受けていた時に作った。

 


【資料】

マハリシの講義を受けた際に同行していたビーチ・ボーイズマイク・ラブ
ポールから弾き語りでこの曲を聴かされたとき、ロシアの女の子のことを
歌ったほうがいいと助言をしたことを受け、ロシアの歌にした

(真実のビートルズサウンド P.364)

 


インドでビーチ・ボーイズマイク・ラブにポールが弾き語りで聞かせた。
マイクが歌詞についてロシアの女の子にしたらいいと助言した。

 


【資料】

ビーチ・ボーイズマイク・ラブはインドにいたときに
コーラスのアイデアを提供した

(ビートルソングス P.133)

 


マイクはコーラスのアイデアも出したと言っている。独立コンサートで
歌ったのはマイクがビートルズと縁のある歌だったからだろう。

 


【資料】

タイトルはチャック・ベリーの「バック・イン・ザ・USA」のパロディ

(真実のビートルズサウンド P.364)


タイトルはチャック・ベリーの題名のパロディ
チャック・ベリーとパロディがとてもビートルズらしい。

 


【資料】

「ホワイト・アルバム」(3CDデラックス・エディション)
3-1曲目

ポールがリード・ギターで弾こうとしているフレーズまで歌っている

レコード・コレクターズ 2018年 12月 P.95)

 


この曲はイーシャー・デモが作成されている。
3CDデラックス・エディションの3枚目1曲目で聞ける。

コーラスはまだできていない。
リード・ギターのフレーズは歌っている。

 


【資料】

2本のギターとボーカル、それに手拍子、タンバリン
3番は歌詞が出来ていなかったのでポールはもう一度1番を歌った

(That Magic Feeling,The Beatles' Recorded Legacy P.170)

 


イーシャー・デモはギターとボーカル、手拍子、タンパリン
3番の歌詞はできていなかった。

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-292- 【Back In The USSR】

Ringo Starr with The Beach Boys



【 Back In The USSR 】 -5-

 


リンゴ脱退の顛末

 


【資料】

ポールは自分でドラムを叩いて難なくBack In The USSRを仕上げたが
リンゴに辞められては困ると思い日を置いて彼を説得した。

地中海に飛んだリンゴはピーター・セラーズのヨットで過ごし
9月5日にスタジオに戻った。

約2週間の脱退劇はメンバーの結束を固めたようで
White Albumのセッション後半は和やかなムードだったという

ザ・ビートルズ・マテリアル vol.1 P.111)

 


リンゴが失踪したためにドラムはポールが叩いた。
ポールはリンゴなしで完成させた。

リンゴは失踪中はピーター・セラーズと過ごした。
スタジオに戻ったのは9月3日だ。

なぜなら9月4日にはHey Judeのプロモーション・フィルムの撮影があり
リンゴは映像に映っている。リンゴは参加しているからだ。

このリンゴの脱退劇でポールは理解したのだろう。
ポールがリンゴのドラムを叩いたことでリンゴを傷つけた。

リンゴはビートルズを辞めてしまった。自分がドラムを叩くと
リンゴがバンドを辞める、バンドが解体するとやっとわかったのだろう。

ポールはリンゴを説得した。
この説得にはもうドラムは叩かないという内容があったはずだ。

だから今後のセッションでポールはドラムを叩いていないはずだ。
リンゴの問題はこれで解決し和やかなムードになったのだろう。

 


【資料】

リンゴ不在でもレコーディングをつづける。
3人はまず伴奏を録音する。

ドラムスがポール(後にジョンとジョージもオーバー・ダビングで叩く)
ジョンがベース、ジョージがギターだ。

翌日さらにダビングを重ねボーカルやコーラスとともに
ベース(ポールとジョージ)、ギター(ポールとジョン)
その他を演奏して完成させる

(これがビートルズだ P.186)

 


リンゴ不在でも3人は録音を続けた。
3人はリンゴがいなくなったことを本気で憂えていない。

3人でドラムを叩いている。
3人はリンゴ不在の録音を楽しんでいる。

 


【資料】

リンゴが演奏していない曲をアルバム、しかも2枚組の
トップの曲に選んでしまうという大胆な決定もビートルズならでは

(真実のビートルズサウンド P.367)

 


リンゴがドラムを演奏していないこの曲がアルバムの1曲目
2曲目もリンゴがドラムを叩いていない。

ジョンとポールはリンゴが参加しているかどうかを気にしていない。
純粋に気に入った曲を冒頭と2曲目にもってきている。

 


【資料】

84年の米国の独立記念コンサートでビーチ・ボーイズがこの曲をカヴァー
したがコンサートに飛び入りしていたリンゴがドラムをたたくはめになった。
リンゴはどんな気持ちだったのか

The Beatles Remastered CD Guide P.139)

 


1984年7月4日、ワシントンでの独立記念コンサート
ビーチ・ボーイズがこの曲をカヴァー、リンゴがドラムを叩いた。

リンゴはマイク・ラブから紹介を受けて両手を突き上げる。
とても高揚していて元気にドラムを叩く。

ビーチ・ボーイズはこの曲でリンゴがドラムを叩いていないのを
知っていたのだろうか。

リンゴは叩きながらこの曲を取り戻した気分になったのだろうか。
長年の鬱憤は晴れたのだろうか。

Love Me Doもリンゴはソロアルバムでドラムを叩いてアルバムに収録している
リンゴは叩き残した曲をソロになってから取り戻している。

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-291- 【Back In The USSR】

Ringo Starr



【 Back In The USSR 】 -4-

 


リンゴとジョージとマーティンの連続した失踪について

 


【年表】

1968年8月17日
ジョージ・ハリスンとパティがギリシャに旅行

1968年8月21日
ジョージ・ハリスンとパティが帰る

1968年8月22日
リンゴはグループを一時脱退してサルジニアで過ごす

1968年9月3日
リンゴがサルジニアから帰ってくる

ジョージ・マーティンが休暇をとる

 


8月17日にジョージとパティが突然旅行にでかける。
8月21日に帰ってくる。

翌日の8月22日にリンゴがビートルズを脱退する。
9月3日に帰ってくる。

同日の9月3日にジョージ・マーティンが休暇をとる。
この日から1ヶ月ほどマーティンは録音に参加しない。

White Albumのセッションに不満を持つのはこの3人だ。
綺麗に3人が連続して録音現場から失踪している。

3人のセッションへの不満はこの時がピークだ。
特にリンゴがビートルズを脱退した8月22日~9月3日

この時3人の不満は最高潮だったはずだ。
現場も雰囲気は悪かっただろう。

メンバー2人とプロデューサーが仕事を放棄するほど不満を持っているのだ。
もう無理だと思ったのだろう。リンゴに続いてマーティンが失踪した。

 


【資料】

ジョージがギリシャでの休暇旅行から帰って翌日
リンゴが脱退した。
セッションの雰囲気の悪さとポールのドラミングへの批判が原因だった。
そしてなんと残りのメンバー3人はリンゴ抜きで録音を続けた。

(That Magic Feeling,The Beatles' Recorded Legacy P.205)

 


リンゴはポールのドラミングへの批判で脱退した。
残りのメンバーはリンゴ不在で録音を続けた。

 


【資料】

このセッションでは少なくともふたりのストライキがあり
初めはジョージがやがてはリンゴが欠席した

ビートルズ全曲解説(ティム・ライリー著) P.294)

 


この資料ではジョージとリンゴの失踪をストライキ
表現している。

ストライキであれば要求があるはずだ。
ジョージの要求は主に二つだ。

ギターを弾かせろ。
この要求はポールへのものだ。

もう一つは自分の曲を真剣に演奏しろ。
これはポールとおそらくジョンも入るのだろう。

リンゴの要求はドラムを叩くな。
ポールへの要求だ。

そしてもう一人、マーティンもストライキをおこしている。
彼の要求はプロデュースさせろ、無視するなだろう。

 


【インタビュー】

リンゴ

僕はジョンに会いに行った。
僕は君たちに好かれてなくて孤立してる
君たちはほんとに仲がいい
それからポールの家に言って同じことを言った。
そのあとジョージの家に行き
僕は休暇をとると告げサルジニアに行った。

(書籍 The Beatles Anthology P.311)

 


リンゴはジョンとポールに直接会って気持ちを伝えている。
このことがリンゴの脱退という問題を解決できた理由だろう。

リンゴの代わりにポールがドラムを叩くことがリンゴを傷つけていると
ポールが自覚しているのもこのリンゴの直接の訴えのおかげだろう。

リンゴは3人全員に一人ずつ直接会いに行った。
これはリンゴの3人への決別の挨拶だったのだろう。

一方ジョージはギターを弾かせろも真剣に演奏しろも言えていない。
White Albumでは作曲者がアレンジを決めるとのジョンの方針があったからだ。

ジョージは不満を直接主張できていない。
ポールには伝わらなかったのではないだろうか。

このことからもリンゴの問題は解決していき
ジョージの問題はこじれていく未来が予想できる。

The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-290- 【Back In The USSR】

Ringo Starr in Sardinia



【 Back In The USSR 】 -3-

 


リンゴの心情はどうだったのか

 


【資料】

Love Me Doのレコーディングに行った時
ジョージ・マーティンはプロのアンディ・ホワイトを使ったんだ。

ジョージ・マーティンに信頼されてないってわかって僕はがっくりきたね。
やる気満々で行ったのにプロのドラマーがいるからって言われたんだ。

ジョージ(マーティン)にはその後何度も謝られたけどあれはひどいよ
あのことを僕は何年も恨んでいた。いまだに完全に許しちゃいないからね

その後はすべて僕がドラムをやってるよ
(まあ、「Back In The USSR」とか数曲は除くけど)

(書籍 The Beatles Anthology P.76)

 


Love Me Doのレコーディングではマーティンが一方的に独断で
セッション・ドラマーを雇った。

Love Me Doのドラムはセッション・ドラマーが叩いている。
1stシングルの録音でリンゴは演奏を外された。

このことはリンゴにとって衝撃だった。
リンゴはずっと後になっても許してはいない。

マーティンは何度も謝ったのだろう。
でもリンゴは許してはいない。

また、リンゴはBack In The USSRでドラムを外されたことも
許してはいない。

リンゴにとってドラムを他人が叩くことが最も屈辱であり
許すことのできないことだ。

そのドラムをBack In The USSRの録音ではポールに否定された。
ドラムをなくしたリンゴはもうバンド内に居場所がない

 


【インタビュー】

リンゴ

僕がバンドを離れたのにはふたつの理由があった。
ひとつは自分が優秀なプレイヤーではないと感じていたから。

もうひとつは他の3人がほんとに楽しそうで
自分が部外者みたいな気がした

僕はジョンに会いに行った。
僕は君たちに好かれてなくて孤立してる
君たちはほんとに仲がいい
それからポールの家に言って同じことを言った。
そのあとジョージの家に行き
僕は休暇をとると告げサルジニアに行った。

(書籍 The Beatles Anthology P.311)

 


リンゴは自分を優秀なドラマーと思っていなかった。
また、バンドの中で孤立していると思っていた。

ジョンとポールに孤立していることを告げに行った。バンドの中心であり
仲のよい2人の仲間にはなれていないと思っていたのだろう。

ジョージには2人とは違ってサルジニアに行くと告げた。
リンゴはジョージは自分と仲良くしてくれていたと思っていたのだろう。

Yer Bluesの回で資料から導き出したとおり
リンゴは一体感を感じられるバンド演奏が好きだ。

また、リンゴには強く結びついている状態が
素晴らしいとの価値観がある

リンゴはバンドが好きで結束した仲のよいバンドが好きだ。
そのバンドに属していることにリンゴのアイデンティティはある。

そこに今回の録音ではドラマーとして否定され居場所がなくなり
バンドの仲間としても孤立していると感じている。

自分にはもう居場所がない。バンドにいる理由もない。
リンゴはそう考えた。

 


【インタビュー】

ケン・スコット

理由は忘れたけどリンゴがなにかでイライラしてたのを覚えてる
そしたら突然彼がバンドを辞めたと知らされたんだ。

(The Complete Beatles Recording Sessions P.188)

 


周囲のスタッフにもわかる露骨な不機嫌だった。
スタッフにとって理由のわからない突然の出来事だった。