Beatlemania's Blog ~ビートルズ研究~

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The Beatles「White Album」いつビートルズは仲違いしたのか。なぜ解散したのか。-160-  【Cry Baby Cry】

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アルバム「Press to Play」

【 Cry Baby Cry 】 -20-

 


ポールがリンダを選びジェーンとフランシーを振った理由について

 


【年表】

1968年2月
ジョンは2月中にインドからオノ・ヨーコに手紙を書く

1968年4月4日頃
ポールとフランシー
交際が始まり同居する。

1968年4月5日以降(~5月10日)
ポールがジェーン・アッシャーと一緒にスコットランドの農場で休暇
フランシーをモデルにBlackbirdを作曲

1968年5月14日
ポールがリンダと再会し密かに会うようになる。

1968年5月16日
ジョンがシンシアに離婚したいと電報を打つ

1968年5月19日(日)
ジョンとオノ・ヨーコ、初めて結ばれる。

1968年6月4日
ポールとフランシーの交際が暴露される

1968年6月18日
ジョン & ヨーコ、芝居を観に行く。
その後、イギリスのマスコミが反ヨーコを表明する。

1968年6月11日以降
ジョンとオノ・ヨーコ、ポールとフランシーの4人は
Abbey Roadスタジオのすぐ近くのポールの家で同居する

1968年6月20日~6月25日
ポールとリンダがアメリカで一緒に過ごす。

1968年7月20日
ポール、ジェーン・アッシャーと婚約破棄

1968年8月22日
ジョンとシンシアの離婚決定

1968年10月28日
シンシアの離婚届が裁判所で受理される
ジョンは敗訴、ジュリアンの親権を失う

1968年11月
ポールがリンダにロンドンで暮らさないかと提案
ロンドンで暮らす。

1969年3月12日
ポールとリンダ結婚

1969年3月20日
ジョンとヨーコ、ジブラルタル島で結婚

 


この年表はポールの恋愛とジョンの恋愛の経過を示している。
ポールとジョンの恋愛、出会いから別れまでが驚くほどシンクロしているのがわかる

ポールがリンダと付き合い始めるのが5月14日
ジョンがオノ・ヨーコと初めて結ばれるのが5月19日でほぼ同じ

最終的にポールがリンダと結婚するのが3月12日
ジョンとオノ・ヨーコが結婚するのが3月20日でほぼ同じ

その間にポールはジェーンと別れて婚約解消を発表する。
同じようにジョンはシンシアと離婚手続きをする。その経緯のタイミングも同じ。

これは偶然なのではなくポールがジョンを追いかけたのだろう。
ジョンが人生と音楽の伴侶としてオノ・ヨーコを連れて来た。

しかも真剣にオノ・ヨーコを愛している。
ポールも同じような人を見つけて後を追いかけなくてはいけない。

人生と音楽の伴侶で真剣に愛することのできる女性。
その観点からフランシーは早々に脱落したのだろう。

ポールは意外なほど早い時期からオノ・ヨーコのような女性を探していたのだろう。
実際にポールがリンダと付き合うのはジョンとオノ・ヨーコが結ばれるのよりも少し早い

ジョンはオノ・ヨーコとの恋愛について微に入り細に入りポールに語っただろう
ポールはそれを聞いて同じように同じような女性を見つけなければと考える。

婚約者であるジェーンは人生と音楽の伴侶で真剣に愛することができない。
3つのうちの何かがなかったのだ。それはおそらく音楽だろう。

ジェーンは真剣に女優業を目指して活動していた。優先順位は女優だった。
ポールと一緒に音楽活動をしてはくれない。

リンダはその点で合格だった。3つとも満たしていた。
ポールはリンダに歌のテストを課したのかもしれない。

リンダは歌がうまかった。
ポールのソロ・アルバムでボーカルを披露している。

フランシーは歌のテストに落ちたのかもしれない
現にフランシーはレボリューションでコーラスをつけたが彼女の声は聞こえない

解散後、ポールとリンダは二人でアルバム製作をする。ライブも二人一緒に行った。
ジョンとオノ・ヨーコの活動と全く同じだった。ポールが模倣したのだ。

1986年のポールのアルバム「Press to Play」のジャケットは
ジョンとオノ・ヨーコのアルバム「ダブルファンタジー」にそっくりだ。